荒れた山の立て直し  
藩政期からあらゆる困難を乗り越え、藩士や農民が限りない愛着を持ち、育ててきた秋田の美林は時代の変革とともに一部民有林を除いてはほとんどが国の管理するところになりました。
祖先から受け継いできた森林も農民たちの管理できないところとなり、山に対する関心も遠のいていくのは当然の成り行きでした。事態を重く見た県では一般農家に対し、林業経営についての必要性を啓発宣伝することが第一と、農商務省から専門家を招き、県内各地で講話、談話会を開き、また造林奨励施策として市町村もしくは部落または組合において一区域の地に杉、檜、松などの一ヵ年に五千本以上を植えたときは奨励金を出すという制度を制定しました。その結果県内いたるところに植林意欲が盛り上がりました。
次世代をになう人工造林杉


危機に直面していた秋田杉も再び生きる力を得ました。個人植林の奨励に成功した県はさらに、学校植林、部落植林と指導を進めていきました。そして県行植林にまで拡大させることになりました。県では模範林の設置を決め、「現在の民有林は荒廃に易きのみならず、多くは天然林にして一つも模範林とすべきものなきをもってこれが模範を示すため」、「現在民間の植樹改良を図るため」、「手入れ、間伐の必要を知らしむるため」、「林業の収利あることを知らしむため」などを目的としました。



模範林の設置は、最初の計画どおり運びましたが、年月の進むにつれて事業の推進力である計画者がその任を離れたりして難航しました。植林、造林事業は短期間で完成させることは無理な話で、事業の成否は当事者の綿密な計画と熱意の有無にかかわるものです。転任が出世の条件と言われた官僚の習慣が、永続的な熱意のある担当者を配置できなかった一つの理由でもありました。それでも県は試行錯誤しながら、秋田藩主たちが必死に山を守りつづけたように、県の林業発展を秋田杉にかけ、植林、造林に愛情をそそぎました。この結果が実り、現在の美林となって残るのであります。
 
毎日新聞社 秋田支局編 「秋田杉物語」より
             
明治時代2