「御札山」と「御留山」  
「いくらあり余る自然資源とはいえ、むやみやたらと切り倒せば山林の衰えは当然このと。やまを守ることは領地を守ることだ」義隆は「御札山」と「御留山」という秋田藩初期の林政のさきがけともなる新しい制度を打ち出しました。「御札山」」とは針葉樹、潤葉樹を問わず、それぞれの必要に応じて森林の育成を図るため藩が制札を交付、樹木の伐採を一切禁止する山のことです。「御留山」とは豊富な杉を藩が独占的に利用し農民たちの自由な伐採を禁止することです。有用樹の確保、藩による独占体制を固めるための苦肉の策でした。




秋田藩初期の林政は「御札山」、「御留山」制度を中心に新林育成を目指しスタートを切りました。しかしこの制度は資源を減らさないというだけの消極的な制度でしかありませんでした。藩では山林保護育成を唱えながらも苦しいやりくりの藩財政であってみれば、豊富な財源となる秋田杉の魅力には勝てず、依然として杉林の荒廃は日に日に激しさを増していました。山で働く役人や農民たちからも「この辺で積極的な対策を打たなければ事は重大問題になる」と藩行政を非難する声が高まってきました。



佐竹藩四代目義格の時代になっても人々が山々を思う嘆きの声が頻繁に聞こえてきました。義格の中にはおだやかならぬものが去来し、先祖が藩命をかけて守ってきた昔のような”茂れる山”に戻すにはどんな方法があるか頭の中はそのことでいっぱいでした。まず林役を巡回させ各地の山を調査すると共に山帳と山絵図を集め、林野の利用形態と有用林木の分布についての資料を作り、二十五個条からなる「林取立役定書」と呼ばれる森林保護の訓令を発しました。これが秋田藩が行った第一期の林政改革「正徳の林政改革」と呼ばれ、いかにして植林を促進するかにありましたが、当時は農村経済も停滞し、農民に経済的余裕がなく、数十年後でなければ自分達も労力に報われるものが回収できない植林に精を出す人も少なく、目立った効果をあげることはできませんでした。



その後もこうした藩にとっては都合の良い、農民にとっては利益にならない林政についての弊害を指摘した意見書が何度か提出されましたが、藩の「お家騒動」や赤字財政の立て直しなどとても林政までには手が回らなかったと思われます。 藩の財政はますますピンチになりました。当然めぼしい杉木は伐採され、また各地で盗伐も横行しました。藩政は八代藩主義敦に引き継がれていました。「天然秋田杉」はこれまでの三分の一にまで減り、藩の財政は火の車、ほんとうにひどい状態でした。義敦は藩内の動揺を押え体制の再建強化に乗り出しました。「第二期林政改革」といわれる宝暦の改革です。 がこれも「天明の大キキン」などもあり目立った効果をあげることはできませんでした。
毎日新聞社 秋田支局編 「秋田杉物語」より
             
藩政時代2