明治時代へ(藩有林は国有林に)  
慶応3年(西暦一八六七年)秋田藩は大きく生まれ変わろうとしていました。廃藩置県が布告され秋田藩は秋田県と改称されました。二百七十年にわたる佐竹氏の秋田支配は終わり秋田藩と秋田杉のつながりが切れました。藩有林は一時県の管理化におかれましたが、政変の混乱などにより乱伐、盗伐が横行し「あきた杉」の蓄積量は目に見えて減少していきました。その後、藩有だった山林はすべて国有になり林政も急テンポで進められる一方、各地で国有林解放運動としての住民の抵抗も起こりました。

藩有林は国のものに、民有林は農民のものになるという制度が農民たちを戸惑わせました。そこには「山は自分たちのもの」という意識が強かったのです。藩有林といえども実際に植林し、管理してきたのは農民であり、藩もまた農民に山林を利用する権利を認めていました。藩政時代はいわば藩と農民の”あいまい”な慣行によって維持されてきました。それが明治政府になって山を国のものと民間のものとを区別しなければならなくなり、山はそう簡単に区別できるものではないという農民たちの考えと大きくかけはなれていました。そうして地租改正が行なわれ、直山、運上山、御札山などはすべて国有になり、また民有にするための物的証拠がほとんどなく、逆に政府の方が従来の慣行を認め民有地にしようとしても農民たちは、民有地にして税金をとられるのではないかと尻込みしてしまうありさまでした。

このようにして当時の秋田県内の山林原野約八十万ヘクタールのうち六十六万ヘクタールが国有林に編入されました。そして農民たちの心は完全に山林から離れていきました。「もう山は自分たちのものではない」。農民の植林意欲は消え、農民に見放された山林は次第に衰えていきました。  
 
毎日新聞社 秋田支局編 「秋田杉物語」より
             
明治時代1