◎天神貯木場
七座営林署の天神地区(麻生)設置
天神貯木場を管轄する七座営林署が天神地区(麻生)に設置されたのは、昭和5年10月で同時に前進の落合営林署が廃止されている。落合営林署が上小阿仁営林署から分割、設置されたのが昭和4年5月となっているので、落合営林署は僅か1年5ヶ月の短い設置期間であったことになる。秋田営林局においては、当時立案された経営計画に天神貯木場構想があってその中で、事業の合理性、効率化の観点から、七座営林署が天神地区設置になっている。


天神貯木場の開設
天神貯木場は七座営林署天神貯木場として開設される。開設工事は昭和5年度に着工、昭和6年に第一期工事を完了、その面積は6.18ヘクタール、それに内務省所管の河川敷地、国有林地などを加える7ヘクタールとなっている。開設当時の経済指数からは、昭和初期は生産活動が活発になっていることと、関東大震災の復旧などから、木材需要が大幅な伸びをみせていることが伺われる。こうした需要動向の中で、良質優良材の宝庫であった小阿仁川流域における森林の利用開発は相当急がれたものと考えられる。
七座営林署
当時能代港は、木材の集散地として、また、高度な技術加工を含む木材消費地として有名であったが、この能代港への木材の安定、計画的な供給は大きな行政課題となっていた。陸路の発達しなかった当時、能代港までの木材の輸送手段としては、水利を利用しての水運が唯一の方法として用いられていたが、落合営林署当時は、天神貯木場から約103キロメートル上流の根田土場(貯木場)を木材の集積地とし、小阿仁川の水利を利用して筏で能代港まで輸送していたが、渇水等もあり、安定、計画的な輸送を確保し得ない状況から、水量豊かな米代川本流にその適地を求め検討された結果、天神地区を選定、天神貯木場が開設にいたったとされている。


天神貯木場の事業
本格的な貯木場の●積(はいづみ)作業は昭和7年から開始しているが、同年度に発生した大洪水よにより●積(はいづみ)した丸太の大部分が貯木場から流出する大被害が発生したことが記録として残されている。このため、緊急対策として貯木場の嵩上工事としての盛土と、流材防備の杭打工事を計画、盛土工事は昭和8年〜9年度において合計75.132立方メートル(平均嵩上110〜120センチメートル)を実施、杭打工事は昭和7年9月までに杭大75本(長9メートル)杭小27本(長4メートル)を実施、更にこの杭に取付けするワイヤーロープ436メートルの3本が取付け配備されている。
秋田杉が山と積まれた天神貯木場
かつては東洋1と誇った天神貯木場である。
年間3サイクルで約24万石(6万立方メートル)貯材したといわれる。しかも全木天然杉であった。
天神貯木場はこのような緊急対策後においても再三大水害により被害を受けているが、この対策後は水害により●積(はいづみ)が崩れ丸太が貯木場内一面に流散しても、貯木場外に流出する被害は皆無又は微少となった。以後この対策は高い評価を受けることになるが、同時に天神貯木場は最盛期と繁栄の足取りを経ていった。
●は「てへん」に並


最盛期頃(昭和22〜35年頃)の七座営林署の生産量規模は108万石〜27万石(立方メートル換算5万立方メートル〜7.5万立法メートル)(換算1石:0.278立方メートル)この生産量は上小阿仁営林署からの転換材6万石〜8万石を含む数量であったが、この大部分が天神貯木場に搬入されている。こうした天神貯木場の生産量(搬入量)の規模、整然とした貯木場構内、秋田営林局管内で最初に導入された102キログラム軌条(レール)によって布設された森林鉄道(本線36キロメートル区間)独国製蒸気機関車(独国コッペル社製)10トン車2台を主軸とした動力車、鉄製貨車(ボーキ車2輌連結)など、当時としては先駆的な役割を果たしていた。
森林鉄道により天神貯木場に搬入される秋田杉
又一方では●積(はいづみ)作業(巻立)で、巻立班毎に文句と音頭を競って競演の仕事歌、その美声が七座山に「こだま」し、この余韻と情緒、一面では筏組みのため、各木落し場から運河(米代川の分水)に落とされる丸太の水を彈く大音響が響いていた。最盛期には天神貯水場だけでも常時120人から200人位の職員、作業員(民間を含む)が働き、日本一、東洋一の大貯木場として名声を誇っていたが、その後時代と共に、生産量の減少と陸路、陸運の整備発達など、とりまく条件の変化によりその役割を終えている。新設されてから約半世紀、昭和55年3月31日付で組織機構から廃止となり、歴史に幕を閉じることになった。
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天神貯木場における巻立作業の変遷
天神貯木場が開設されてから昭和22年度までの巻立は人力作業であった。作業班の構成は主として、男4人、女6人の10人であった。作業の状況は男の一人が美声高らかに音頭をとると、その音頭に調子を合わせてロープを引いて巻立をする。女の服装は夏は菅傘に木綿カスリ、下は「モンペ」赤い「おこし」をちらつかせながらの作業となる。作業班はその日によって異なるが、4〜8班程度、班毎に音頭と文句を競っての、その声が七座山に「こだま」する。
情緒豊かな巻立作業の変遷
その余韻と情緒は往時を知る人々には忘れ得ない郷愁となっている。この情緒豊かな巻立作業も、昭和22年度から一部電動巻上機に変り、昭和25年頃からこの絵もほとんど影を消している。以後の天神貯木場は電動巻立の時代に変わった。しかしその期間も約30年間で、我が世を誇った電動巻立機も、固定機械→自走機械へと変わる技術の進歩に杭すべもなく、ローダー巻立にその座をあけ渡すことになり、昭和54年7月からはローダー巻立の本格作業が開始されている。


天神の埋没家屋
昭和7〜8年七座営林署が天神貯木場の水害対策のため貯木場の嵩上工事実施中、七座山の東麓、米代川の川岸から約200メートル隔てた水田を切り取ったところ、2間に3間(3.6メートル〜5.7メートル)の住居跡が3棟発掘されている。発掘現場は、米代川の平水面から約5メートル程高いところで、家屋は土間と床間とが区別され、床間は板敷となっており、出入口の戸はスギの一枚板で観音開きの扉、造作は割板を鎧重ねに並べて土中に挿し、釘は使用していなかった。屋内には、臼、手杵、素焼の瓶、曲げ物などがありアイヌ族の遺跡と見られている。
米代川の洪水で浸水した天神貯木場の前全景
埋没の原因は、家もつぶれもしないでそのまま残り、また、家の中の物に破損なく当時の姿をとどめたままであることから、平安時代(西暦806年)のシラスの大洪水により、七座の狭隘部で河道がせき止められ、一時的に湖沼となり水底に没したものと言われている。

「参 考」:昭和36年(1961年)に発見され、同42年(1867)から数次にわたって発掘調査を行なった、鷹巣町胡桃館埋没家屋遺跡の場合も、水没家屋はシラスの堆積によって埋没したことが認められている。